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2014/05/18

猿は引退して、ネズミと猫はどちらが勝つか?  黒木 安馬さんから

猿は引退して、ネズミと猫はどちらが勝つか?  黒木 安馬さんから

 

 

ミッキーマウスと言えばディズニーランド。本来マウスはネズミだから、“ネズミーランド”と言ったほうがより正解かもしれないが、ネズミの楽園などと言ってしまえば天井裏の運動会じゃあるまいし、夢も希望もなくなる。お金が出て行くから“出銭(デゼニ)ランド”にすれば、足が遠のく。

 

さほど名前のイメージは大事である。

 

ネズミを襲うのは猫。とすれば、ディズニーランドの向こうを張ってキャットランドなるものがあってもおかしくない。その猫がキャラクターの楽園が、実はあるのだ。

 

東京ディズニーランドができたのは30年前。JALは園内に施設を公式提供しているので、一般オープニング前のスポンサー特別招待日ということで、全社員が家族連れで遊べる無料の丸一日があった。ところが、タダほど恐ろしいものはない、この日は世界中の空から鶴丸機がフライトキャンセルになるのではないかと思うほど日航ファミリーが黒山の人だかりで押しかけて、どのイベント会場も行列だらけ。閉口したのは、幾重にもなって往復するロープに並んで行列で順番待ちすると、何度も同僚や上司と向い合わせになって立ち止ったままになることになり、それもお互いの家族同伴で見たくもない顔に、したくもない長話をしなくてはいけない苦行だった。

 

1964年の東京オリンピック以降から1980年代は経済成長も右肩上がりで、高級車を持つ金持ちも沢山いた。そこに目を付けた、利根川河口の千葉県銚子対岸にある茨城県波崎生まれの野口氏は、東京で自家用車の運転手を派遣するという斬新な発想で大成功し、大新東(株)を立ち上げて躍進する。その頃、三井不動産と京成電鉄が協力して浦安海岸の埋立地に東京ディズニーランドを造る構想が本格化し、日夜のニュースになって人々は興奮していた。

 

(今だから言えることだが、三井不動産重役の子息が乗務員仲間だったので、情報は早かったし、開園後は色々と招待券など便宜を図ってもらったものだ)

 

アメリカから上陸するテーマパークに人気が集まるのであれば、日本だって独自のものがあればブームになるはずだと野口氏は直感する。和風と云えば、西欧化される明治維新前の江戸文化。そうだ、江戸村を造ったら面白いのでは! と、伊藤博文、高杉晋作、山県有朋などを輩出した吉田松陰の松下村塾や武家屋敷を頭に描いた。造るとすれば、その塾があった山口県萩がふさわしいと信じて調査に出かける。ところが、行ったことのある人は分るだろうが、風光明美ではあっても、とてつもなく辺鄙な日本海の山肌に沿うようにある山陰の小さな町で、交通は一本道のみで不便極まりないのである。その上、近くには秋吉台の鍾乳洞以外は目立った観光地が見当たらない。ここに数十億円規模のテーマパークを立てても、集客と売上は至難の業であることはだれの目にも一目瞭然だった。

 

考えられたのは、江戸を代表するのは徳川家康の墓である日光東照宮。観光客は多いし、中禅寺湖や鬼怒川温泉など集客量は通年ある。そこで、そのアイデアを日光市長に話したら二つ返事で飛びついてきた。ところがその市長が途中で落選して、建設候補地だったところも話がこじれて頓挫してしまう。

 

振り出しに戻ったころに、日光市近隣の今市などの市長村長たちが野口氏に面会にやってきた。日本鉱業の銅山があった山林15万坪をそっくりご用立てするので、是非一緒にやりませんか!との提案であった。

 

かくして1986年4月に「日光江戸村」は30億円の巨費を投じて見事に開園するのである。建物も従業員たちもすべて江戸風に統一。マスコットは、米国産ネズミを食ってしまう国産のネコ。それもただのドラ猫だと面白くない。江戸時代のネコだからチョンマゲをしている・・・そうだ、ネコ・ニャン・チョンマゲだから、『ニャン髷(まげ)』としよう!と、白い招きネコがチョン髷を結っているイメージを博報堂が発案する。

 

年間入場者150万人のパーク、いまでも等身大のキャラクター、ニャン髷の着ぐるみが園内に出没して人気者になっている。

 

創業者野口氏の息子さんである時代村の野口義和会長に案内されて園内を一日廻る。江戸風の建造物は屋敷から小物、風景まで忠実に再現されており、まるでタイムマシーンに乗った雰囲気に包まれる。子供たちも本物の忍者の衣装に着替えて、すっかりその気になって走り回っている。圧巻は、まっ暗い忍者屋敷で、映画やTVでもここまで見事に演技はできないだろうと思う迫力と天地を駆け巡る身軽な動き、火花散る凄みのある剣さばきの戦い。それに、よくもまああここまで綺麗な女性が目の前にいたものだと思われる映画みたいに眩しいばかりの花魁(おいらん)が、華麗で重厚見事な出で立ちと立ち居振る舞いで現れ、妖艶に演じる舞台の数々。あたかも歌舞伎座の舞台際かぶりつきで観ている贅沢さが延々と続くのである。

 

後から聞いて納得したが、園内アトラクションの俳優たちは日光江戸村劇団員でありファンも多く存在しているとか。花魁に至っては、ミス江戸村選考会を毎年コンテスト開催し、入賞者には大金の賞金が出て、踊りや演技など本格的な教育が施されて数年かけてプロ中のプロへ養成するのだそうだ。確かに、舞台の袖から厳しい目で弟子たちを見つめていた踊りの師匠の姿があった。忍者たちも映画出演も頻繁にあるとか。真迫の臨場感は、京都太秦(うずまさ)の撮影所を上回る。惜しむらくは、本物の捕りものが路上で行われるとか、突然の意表をついた敵討ちなどの斬り合いが目の前で始まるとか、観客を巻き込んでの雰囲気がもっとあれば面白いと思った。サプライズの連続と自分参加型でないと、お客さまは飽きてしまうのが現代の傾向である。

 

お客がお客を呼び込むリピートをどのように仕掛ける戦略を立てるのか、そこからが必殺仕掛人である私の出番なのだと、密かに思ったものだ (*^_^*)v ~♪

 

次の館へとこれでもかと続く大きな屋敷群や旅籠に茶屋街、土産物屋・・・全部を見て回るには一日では足りそうにもなかった。

 

場所がら、通勤を考えて100人が入れる寮も併設され、社内結婚が多いのが嬉しいことの一つだと野口会長は目を細めた。新入社員はいつでも大歓迎で、特に和食の板前さんなどは急募だとか。楽しい世界で、楽しみながら仕事ができるのは最幸なことである。

 

今回の訪問の切っ掛けになったのは、実は新聞記事の「さらば、日光猿軍団」だった。野口会長にはいつでもどうぞと言われていたので、猿軍団が解散廃止される今年中には何としてもと、急な訪問になった。

 

“お猿の学校”の猿さんたちも高齢化の押し寄せる年波には勝てず、28匹の猿たちも60歳前後だとか。高齢化も確かに大きな原因だろうが、私から観ると演出力と企画力のマンネリ化で行き詰っている気がした。斬新な発想の若い後継者が現れれば、あえて廃園にしなくても、老猿たちの活躍場はまだまだあると感じた。少なからず、猿たちはこれで終わって、引退老後生活に引きこもりたいとは思っていないはずだ。

 

寂しい限りではあるが、それも時代の流れか・・・。驚いたのは、その日光猿軍団の間中俊雄さんもすでに65歳だが、もともと江戸村でテナントとして甘栗と漬物の店を出していた人だった。可愛がっている猿を店頭に繋いで曲芸をさせていたのが高じて猿の学校へとなっていったとのこと。

 

鴨長明の方丈記、“行く川のながれは絶えずして、しかももと水にあらず。よどみに浮ぶ泡沫(うたかた)は、かつ 消えかつ結びて久しくとゞまるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し・・・”、

 

猿も人も、ブームも時代とともに変わる。日々変化する環境に適応できる柔軟な姿勢があるかどうかが、生き延びる唯一の手段。

 

長島茂雄さんが学生時代に、野球の練習で疲れて英語の時間に居眠りしていたとか。その時、先生が、「おい、長島、I live in Tokyo を過去形に直してみろ!」と振ったそうだ。長島さんは、目をこすりながら困った顔で答えたとか、「I live ~….I live in ----EDO !!」確かに、東京の過去は江戸だ~♪これは、後日、長島さんに機内で直接確かめたことがある。「そんなことは言いませんよ。まっ、失敗は成功のmotherですからねえ~~」

 

うん、こんな調子で、間違いなく言ったはずだと不思議と確信したものである。

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