« 今も福島は問題だらけです。 | トップページ | エステムフォーラム 2014  豪雨災害 »

2014/05/25

⇒ 鼠小僧次郎吉(ねずみこぞう・じろきち)は実在したか? 黒木 安馬さんから

⇒ 鼠小僧次郎吉(ねずみこぞう・じろきち)は実在したか?

 

 

『義賊』。金持ち・ブルジョワなど富を得た階級、富裕層を悪と見たてた上で、一般庶民や貧困層は、その犠牲になって虐げられている被害者であるから、それを善として、勧善懲悪的なストーリーが多く残される。その富裕層に窃盗に入り、その盗んだ金銭を一般庶民へばらまく。刑法では立派な窃盗犯であるが、なぜか、私利私欲のためではないとされると、それはたちまち善となり、美談となり、その立役者は義賊として創作美化され、伝説のヒーローとして物語になる。

 

ロビン・フッドや、ゾロ伝説などは特に有名である。我が国では、江戸時代の義賊とされた千葉県佐倉市の名主、佐倉宗吾、それに、大泥棒であった石川五右衛門などの例がある。

 

 

3.11の大震災の折には、犯罪なのか、美談なのか・・・判断が揺れる、隠れた事件が起きた。

 

「子供義賊」の件である。

 

 

大地震と大津波で人々は一挙に地獄へと追いやられた。避難所で震えながら生活する人々。援助や義捐金は世界中から寄せられているのに、とうの個人へは1円の現金すら届いてこない現実。着の身、着のままで逃げたままだから、現金は無く、生活はどんどん厳しくなる。避難所の子供たち数人は、無人の廃墟と化している気仙沼信用金庫に向かった。瓦礫の中から金庫を探し出し、そこから数千万円の現金を取り出した。そして、その金を、避難所にいる老人たちへ配って歩いたのだ。お爺ちゃんお婆ちゃんたちは、悪いことだとわかっていても、ここはお互いさまだと、涙を流して喜んでくれたという。警察もどうしてよいものか、その後の詳細はどうなったのか、どこのマスコミも、この事件から都合よく何も触れようとせずに逃げている。

 

 

ネズミ小僧が有名になったのは、幕末にペリーの黒船がやってきた1853年から4年後の江戸。正月公演の「市村座」で『鼠小紋東君新形(ねずみこもん・はるのしんがた)』が上演されてからである。作者は、二世河竹新七こと、古河黙阿弥。彼は、二代目伯月が講釈していたものを種に作ったと言うから、鼠小僧はもっと前から講釈されていたことになる。

 

『鼠小紋東君新形』の山場は、駿河町二丁目大黒屋の場面や、麹町三丁目の酒屋三河屋で99両2分を盗み、それをシジミ売りの菊松に恵んでやる場面。

 

また100両の金をだまし取られた刀屋の新助を助けるあたりも、観衆をうならせる。新助は主人に面目ないから、生きていられないと覚悟を決め、愛人の芸者お元に別れを告げて死のうとする。お元のほうも、新助なしでは生きていけない、私も一緒にと、大川端で投身自殺をしようとする。

 

二人の様子を物陰からじっと見ていた鼠小僧、見ず知らずのお前たちだが、金で命を捨てるのを見逃すわけにはいかない、俺が100両の金をやるから、待て! と言う。

 

稲毛邸へ忍び込み、首尾よく100両を盗み出して、気前よく二人に与えてやる。二人はあつくお礼を述べながら、居どころや名前を聞くが、“金は天道さまからの賜り物、有難いと思ったら親孝行をせよ”との、名セリフを残して消えてゆく。

 

そこには、金持ちから大金を盗み出して、社会の底辺にひしめく人たちに分け与える、庶民の英雄のさっそうたる姿がある。

 

 

さて、問題の主人公だが、その名前は別として、実在のモデルがいたことは確かのようである。

 

彼がこれほど有名になったのは、江戸の興行と関係が深い歌舞伎小屋「中村座」の小間使い、木戸番の貞次郎の息子として、1795年元吉原に生まれたことにもよる。

 

10歳の少年時代は建具屋に住み込職人で丁稚奉公、16歳で町火消しの鳶(とび)人足になったりしたが、そのうち、まともな仕事に嫌気がさして、博打(ばくち)打の仲間に入った。そのため、25歳で、律儀者の父親に勘当され、ついには博打の金もなくなり困窮する。そのバクチ、酒とオンナで生活難のために、泥棒を開業することに相成ったのが真相のようである。現代の、どこにもいそうな脱落者がヤクザや犯罪に走るパターンとさほど変わらない。

 

芝居では、庶民の英雄として、義賊振りをいかんなく発揮しているが、実在の人物は、武家屋敷の居間や勝手口など家の奥に盗みに入るのが専門。建具職人、トビ職の経験が大きくものを言う。多い時には一度に420両、少ない時には三分という、はした金まで盗んでいたという。彼が荒らしまわった武家屋敷は、99か所、122回にわたり、合計は3千両以上と言われる。

 

因みに、「千両箱」の重さは、約15kg。鼠小僧が映画などで屋根などを担いで走っているが、これは半端な重さじゃないので、無理と云うもの。江戸初期で、人一人の一年分の米消費量、米1石に相当する価格は1両前後。小判1両は、江戸時代初めには今の10万円ほどの価値だから、千両箱は一億円!!とすれば、盗んだ三千両は三億円 (*^_^*)v ~♪時代が時代であれば、「三億円強盗事件」真犯人なのである。

 

 

1832年8月6日、日本橋浜町の上野国小幡藩の武家屋敷でついに逮捕される。奉行所では、凶悪犯に科せられる重罪である、「市中引き回し」の上、打ち首の判決が下される。たかが泥棒であったのに、この重罪は、泥棒に入れた武家たちのメンツが掛かっていたからだと思われる。1832年8月17日、37歳。当日の引き回しの刑には、江戸中の野次馬が集まったとある。主役の犯人がみすぼらしい恰好だと見世物にならないので、豪華な着物を着せて、薄化粧までさせたとか。

 

 

その彼が、黙阿弥らによって義賊化され、いつの頃にか、回向院(えこういん)に墓が作られ、香華(こうげ)が絶えない。

 

いかに「太平のなせるわざ」とは言いながら、窃盗犯を英雄視する風潮、やはりそこには、犯罪だと明白に分ってはいながらも、反権力行動に、溜飲を下げる社会の底辺にある庶民の憂さ晴らし、心情の表れを垣間見ることができる。

 

 

石川五右衛門は京都で釜茹での刑になる時に、辞世の句を読んだ。

 

 

「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」

 

 

浜辺の砂より、この世に人が生きている限り、泥棒はそれ以上に無くなるまい!

|

« 今も福島は問題だらけです。 | トップページ | エステムフォーラム 2014  豪雨災害 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 今も福島は問題だらけです。 | トップページ | エステムフォーラム 2014  豪雨災害 »