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2014/05/11

知られざる国歌 「君が代」 黒木 安馬さんから

黒木 安馬さんから

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 知られざる国歌 「君が代」

 

 

『君が代は、千代に八千代にさざれ、石の巌となりて、苔のむすまで~』は、日本の“国歌”として誰でも歌ったことがあるだろう。

 

ところが意外なことに、国歌として正式に法で確定された事実は、かつて一度もない!のである。

 

それが、戦後の日教組を中心とした左翼的反対派が、国歌、日の丸=戦争に結びつく!!という極端な短絡思考で、生徒指導も含めて、「起立拒否」などで抵抗する、口実の一つにもなっている。

 

国際線乗務30年間、地球を860周もしてきたが、祖国の国歌と国旗を拒否する国民は、テロリスト以外は聞いたことが無い。

 

 

江戸幕府が終わった明治維新の1869年(明治2年)、横浜のイギリス公使館警護の英国歩兵軍楽隊に、若い薩摩藩士たちが軍楽を学びに来ていた。日本にも西洋式の軍楽隊を作るためだ。

 

その年の夏7月には、ヴィクトリア女王の次男であるエディンバラ公アフルレッド王子が来日することになっており、儀礼式典では国歌演奏が国として必要であったが、まだ我が文明開化ほやほやの日本には、国歌と言う概念すら無かった。

 

イギリス軍楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントンは、そこで急ぎ日本にも国歌を作ることを明治新政府に提言した。フェントンは、砲兵大隊長・大山巌と相談し、大山らが幼少の頃から愛唱していた『君が代』を選びだし、日本の明治兵隊の鼓笛隊でも演奏が出来るように、その詩に急ぎ曲を付けることになった。

 

平安時代の『古今和歌集』、“賀”の部に、“題知らず、読み人知らず”で、「我が君は千世に八千世に・・・」と古くからあり、鎌倉時代でも目出度い歌として人々に喜ばれていた。我が君とは、周りから祝福されて“賀”を受ける立場にある者のことであり、もともとそれは天皇を意味することではなく、“あなた”の意味でしかない。『君が代は』は、室町時代以後は、物語や御伽草子(おとぎぞうし)、謡曲、小唄、浄瑠璃、常磐津、長唄、舟唄、盆踊りなど多方面で歌われた。静御前が源頼朝の前で舞った時にも謡ったと言う話も残っていて、酒宴の最後のおさめ歌でもあった。江戸時代にも口ずさみの歌として、俗謡や俳諧でもよく使われたのである。

 

 

『君が代は~、千代に八千代にさざれ~、石の巌となりて~、苔のむすまで~』と、歌いながら息継ぎをして切るが、だれも不思議に思わないのが、私には若い頃から不思議だった。

 

どの辞書で調べても“サザレ”の語彙はなく、有るのは、“さざれ石”だけであったからだ。

 

さざれ石(細石、さざれいし)は、もともと小さな石の意味だが、長い年月をかけて小石の隙間に石灰岩、炭酸カルシウムや水酸化鉄が、雨水で溶解して粘着力の強い乳状液で少しずつ小石を凝結し、石灰質の作用でコンクリート状に固まって岩の塊になる。学術的には「石灰質角礫岩」で、滋賀県・岐阜県境の伊吹山が主要産地である。歌詞中の、さざれ石(細石)は文字通り、細かい石・小石の意であり、それらの小石が巌(いわお)となり、さらにその上に苔が生えるまでの過程が、非常に長い年月を表し、鶴亀の長寿と繁栄を比喩するものとして用いられてきたわけである。

 

とすれば、『さざれ~~♪、 石の巌となりて~~♪』と、フレーズを分断するのはいかにも不自然である。

 

どうして、そうなってしまったのか?

 

だれも説明や解説を書いているのをまだ見たことが無いが、私の推測では、イギリス人フェントンは、その古今和歌集の日本語の意味がよく分からないまま、曲作りをした---!!ということではないだろうか。どこで歌詞を切っていいのかなど、ほとんど念頭になかったのではないか。

 

当時の西洋文化、舶来の音楽、その文明開化の先生にイチャモンをつけるほどの度量は、脱亜入欧とザンギリ頭の世相ではどの日本人も持ち合わせていなかったと思われる。

 

 

王子来日の式典で国歌として演奏されたかどうかの記録は残っていないが、翌年の明治3年9月8日、東京越中島で薩摩・長州・土佐藩の陸軍観兵式で、薩摩藩軍楽隊が演奏した、と記録にある。。ところが、これがあまりにもバタ臭くて日本人には極めて不評だったとあり、誰も見向きもせずに、6年後の天長節での演奏を最後に、海軍軍楽長・中村祐康が楽譜の改訂を海軍省に上申した。

 

だが、西南戦争が勃発して、改訂は延び延びとなり、1880年になってようやく海軍省が宮内省に軍楽曲に相応しい曲をと申しいれた。中村を始め、陸軍の西元義豊、宮内省の林広守、海軍の教師ドイツ人エッケルトが委員に任命された。林広守の長男・林広季と奥好義が何のためのものか分からずに曲をいじり、林広守が手を入れ、海軍軍楽稽古場で幾度か合奏させながら練り上げたのが今日の『君が代』の曲になった。

 

その年の天長節では軍楽曲として演奏され、エッケルトは、『大日本礼式(君が代の譜)・Japaneshe Hymne(日本の讃美歌)』、と題した本を出版して世界に紹介し、海軍省も各条約国へ公文書で通知した。

 

ところが一方では宮内省も文部省も、それぞれ“国歌”を作ろうとしていたのだが、いずれも失敗している。

 

そして時間とともに、特に法律で布告することもなく、いつの間にか世界情勢激動の波の中で、『君が代』は、我が国の国歌『national anthem』として定着して行くことになった。

 

1893年(明治26)には、文部省告示として小学校儀式唱歌として「君が代」が採用され、日清・日露戦争を経て、満州事変、太平洋戦争と進む中で、日の丸の旗とともに、万歳三唱、“国歌斉唱”がさかんに行われるようになる。

 

ところが1945年、敗戦を迎えた占領軍支配下になると、神話などはことごとく悪夢の元凶として否定される言論自由の戦後になると世論は一変する。大本営発表の御用広告塔だった朝日新聞などは手の裏を返したように立場を豹変させる。民主主義の世の中に、“天皇陛下万歳”と同等に天皇をたたえる“君が代”とはなんたることか、主権在民の日本国憲法違反である! 帝国主義を称賛し戦争を繰り返そうとするものだ!と批判が飛び出す始末になる。

 

もともと“あなた”であった意味が、いつのまにか「上御一人(かみごいちにん)」とされ、明治以降は、明らかに天皇の意味になる。江戸鎖国270年から瞬く間の開国と明治維新、挙国一致して諸外国へ太刀打ちできる中央集権国家にするためには、天皇陛下をその旗頭として絶対的中心に置かなければならない必要性があったのだ。

 

 

オリンピックなどで、「君が代」を世界中に披露させる機会が昨今は増えたが、西洋の行進曲風の力強い曲調と比較すれば、いかにも間延びした雅楽風で重くて暗い・・・などの批評もあるにはある。

 

だが、不思議なもので、このメロディーを異国で耳にすると、全く違うものになる。

 

妙に背筋がしゃんとして、なにか気高い荘厳な雰囲気になるのである。祖先や祖国の、累々と伝え流れる我が遺伝子が、ピシッとONになるのである。

 

もう一度言おう、世界の空を30年間、地球860周のフライトをして地球を眺めて来たが、自国の国旗や国歌に敬意を払うどころが、敵意を示す人たちがいる国は、テロリストか無政府主義者がいる国以外に観たことが無い。

 

 

いろんな講演先で『君が代』斉唱の機会が多いが、私は、この重厚さと荘厳さが大好きである。

 

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