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2014年5月

2014/05/25

⇒ 鼠小僧次郎吉(ねずみこぞう・じろきち)は実在したか? 黒木 安馬さんから

⇒ 鼠小僧次郎吉(ねずみこぞう・じろきち)は実在したか?

 

 

『義賊』。金持ち・ブルジョワなど富を得た階級、富裕層を悪と見たてた上で、一般庶民や貧困層は、その犠牲になって虐げられている被害者であるから、それを善として、勧善懲悪的なストーリーが多く残される。その富裕層に窃盗に入り、その盗んだ金銭を一般庶民へばらまく。刑法では立派な窃盗犯であるが、なぜか、私利私欲のためではないとされると、それはたちまち善となり、美談となり、その立役者は義賊として創作美化され、伝説のヒーローとして物語になる。

 

ロビン・フッドや、ゾロ伝説などは特に有名である。我が国では、江戸時代の義賊とされた千葉県佐倉市の名主、佐倉宗吾、それに、大泥棒であった石川五右衛門などの例がある。

 

 

3.11の大震災の折には、犯罪なのか、美談なのか・・・判断が揺れる、隠れた事件が起きた。

 

「子供義賊」の件である。

 

 

大地震と大津波で人々は一挙に地獄へと追いやられた。避難所で震えながら生活する人々。援助や義捐金は世界中から寄せられているのに、とうの個人へは1円の現金すら届いてこない現実。着の身、着のままで逃げたままだから、現金は無く、生活はどんどん厳しくなる。避難所の子供たち数人は、無人の廃墟と化している気仙沼信用金庫に向かった。瓦礫の中から金庫を探し出し、そこから数千万円の現金を取り出した。そして、その金を、避難所にいる老人たちへ配って歩いたのだ。お爺ちゃんお婆ちゃんたちは、悪いことだとわかっていても、ここはお互いさまだと、涙を流して喜んでくれたという。警察もどうしてよいものか、その後の詳細はどうなったのか、どこのマスコミも、この事件から都合よく何も触れようとせずに逃げている。

 

 

ネズミ小僧が有名になったのは、幕末にペリーの黒船がやってきた1853年から4年後の江戸。正月公演の「市村座」で『鼠小紋東君新形(ねずみこもん・はるのしんがた)』が上演されてからである。作者は、二世河竹新七こと、古河黙阿弥。彼は、二代目伯月が講釈していたものを種に作ったと言うから、鼠小僧はもっと前から講釈されていたことになる。

 

『鼠小紋東君新形』の山場は、駿河町二丁目大黒屋の場面や、麹町三丁目の酒屋三河屋で99両2分を盗み、それをシジミ売りの菊松に恵んでやる場面。

 

また100両の金をだまし取られた刀屋の新助を助けるあたりも、観衆をうならせる。新助は主人に面目ないから、生きていられないと覚悟を決め、愛人の芸者お元に別れを告げて死のうとする。お元のほうも、新助なしでは生きていけない、私も一緒にと、大川端で投身自殺をしようとする。

 

二人の様子を物陰からじっと見ていた鼠小僧、見ず知らずのお前たちだが、金で命を捨てるのを見逃すわけにはいかない、俺が100両の金をやるから、待て! と言う。

 

稲毛邸へ忍び込み、首尾よく100両を盗み出して、気前よく二人に与えてやる。二人はあつくお礼を述べながら、居どころや名前を聞くが、“金は天道さまからの賜り物、有難いと思ったら親孝行をせよ”との、名セリフを残して消えてゆく。

 

そこには、金持ちから大金を盗み出して、社会の底辺にひしめく人たちに分け与える、庶民の英雄のさっそうたる姿がある。

 

 

さて、問題の主人公だが、その名前は別として、実在のモデルがいたことは確かのようである。

 

彼がこれほど有名になったのは、江戸の興行と関係が深い歌舞伎小屋「中村座」の小間使い、木戸番の貞次郎の息子として、1795年元吉原に生まれたことにもよる。

 

10歳の少年時代は建具屋に住み込職人で丁稚奉公、16歳で町火消しの鳶(とび)人足になったりしたが、そのうち、まともな仕事に嫌気がさして、博打(ばくち)打の仲間に入った。そのため、25歳で、律儀者の父親に勘当され、ついには博打の金もなくなり困窮する。そのバクチ、酒とオンナで生活難のために、泥棒を開業することに相成ったのが真相のようである。現代の、どこにもいそうな脱落者がヤクザや犯罪に走るパターンとさほど変わらない。

 

芝居では、庶民の英雄として、義賊振りをいかんなく発揮しているが、実在の人物は、武家屋敷の居間や勝手口など家の奥に盗みに入るのが専門。建具職人、トビ職の経験が大きくものを言う。多い時には一度に420両、少ない時には三分という、はした金まで盗んでいたという。彼が荒らしまわった武家屋敷は、99か所、122回にわたり、合計は3千両以上と言われる。

 

因みに、「千両箱」の重さは、約15kg。鼠小僧が映画などで屋根などを担いで走っているが、これは半端な重さじゃないので、無理と云うもの。江戸初期で、人一人の一年分の米消費量、米1石に相当する価格は1両前後。小判1両は、江戸時代初めには今の10万円ほどの価値だから、千両箱は一億円!!とすれば、盗んだ三千両は三億円 (*^_^*)v ~♪時代が時代であれば、「三億円強盗事件」真犯人なのである。

 

 

1832年8月6日、日本橋浜町の上野国小幡藩の武家屋敷でついに逮捕される。奉行所では、凶悪犯に科せられる重罪である、「市中引き回し」の上、打ち首の判決が下される。たかが泥棒であったのに、この重罪は、泥棒に入れた武家たちのメンツが掛かっていたからだと思われる。1832年8月17日、37歳。当日の引き回しの刑には、江戸中の野次馬が集まったとある。主役の犯人がみすぼらしい恰好だと見世物にならないので、豪華な着物を着せて、薄化粧までさせたとか。

 

 

その彼が、黙阿弥らによって義賊化され、いつの頃にか、回向院(えこういん)に墓が作られ、香華(こうげ)が絶えない。

 

いかに「太平のなせるわざ」とは言いながら、窃盗犯を英雄視する風潮、やはりそこには、犯罪だと明白に分ってはいながらも、反権力行動に、溜飲を下げる社会の底辺にある庶民の憂さ晴らし、心情の表れを垣間見ることができる。

 

 

石川五右衛門は京都で釜茹での刑になる時に、辞世の句を読んだ。

 

 

「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」

 

 

浜辺の砂より、この世に人が生きている限り、泥棒はそれ以上に無くなるまい!

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2014/05/22

今も福島は問題だらけです。

今も福島は問題だらけです。

「1号機の格納容器が壊れていた」

 快医学のセンスケさんから緊急情報が入ってきた。福島原発・1号機の格納容器が破損していて毎時3.4トンもの冷却水が漏っているというのだ。本当か?やはり・・・、避難の準備をしなくてはいけないのか?などいろんな想いが頭をよぎった。 この報道、テレ朝とNHK以外は報道していないという。なぜ?国も県も「美味しんぼ」の鼻血問題を叩き、あたかも福島は問題がないかの如き対応をしているが、これが現実だ。まるで津波の二波、三波が間近に迫っているのに、「ここにいて大丈夫ですよ」と言っているかのよう。やはり、何事も自分の頭で考えなければならないのだ。
 以下に転載します。写真は2011年3月15日に爆発した福島原発の3号機と4号機のもの。(東京新聞より)

福島第一原発1号機 格納容器から燃料冷却水の8割が漏洩 放射性濃度最大237万μシーベルト ほとんどのメディアが黙殺(日刊ゲンダイ)

 先週末に発表されたショッキングな数値をどれだけの国民が知っているだろうか。東電は先月30日、福島第1原発の原子炉1号機について、「格納容器下部の破損配管から、1時間あたり最大3.4トンの汚染水が漏れていると推計される」と明らかにした。
 1号機はメルトダウンした核燃料を冷やすため、1時間あたり4.4トンの注水を続けている。その実に約8割が、格納容器の外に漏れ出しているわけだ。
 注入した水は当然、核燃料に触れて高濃度の汚染水となる。東電によると、漏れ出した汚染水の放射能濃度は1時間あたり最大237万マイクロシーベルトに達した。この数値はロボットなどを使った調査によって推計したもの。とてもじゃないが、人間は近づけない深刻な汚染レベルだ。
 破損箇所をふさがない限り、汚染水のダダ漏れは続く。東電は「格納容器の他の場所からも漏れており、今後もロボットを使って調査する」(広報部)と言うから、食い止めるのは遠い先の話。毎時3.4トンなら1日81.6トン、1カ月2448トン。これは1号機に限った量で、敷地全体では途方にくれるほど莫大な量の汚染水が日々発生していることになる。
 事故発生から丸3年近く経つのに、ひたすら大量の汚染水を生み出し、その処理に追われる堂々巡り。今なお「収束」と呼ぶには程遠い惨状を浮き彫りにするデータなのだが、驚いたのはメディアの対応である。
 今回の東電の発表をキチンと伝えたのは、民放キー局ではテレ朝のみ。NHKも発表翌日の早朝5時台のニュースで伝えたが、視聴者の多い朝7時のニュースのラインアップからは外した。全国紙はナント、「8割漏洩」を一行も伝えず、完全に黙殺である。

 評論家の佐高信氏は、「3・11後も電力業界は自民党議員にカネを配り、原発新増設を促す『模範回答』まで配布していた。メディアも同様です。3・11後も有力スポンサーとして君臨し金の力でメディア支配を続けている。電力会社に牛耳られたメディアに、原発の真相を伝える気概を求めるだけムリな話です」と突き放した。むろん、福島原発の現状を報じないのは、元首相コンビが「脱原発」を訴える都知事選の動向とも無関係ではないだろう。メディアは怖いのだ。細川の支持が高まり、脱原発の世論が原子力ムラと一体化した既得権益を吹き飛ばすことを。その証拠に細川・小泉の演説内容をほとんど報じない。前出のNHK朝のニュースは都知事選の話題を一秒も伝えなかった。脱原発コンビの主張にフタをするため、意図的に都知事選報道を矮小(わいしょう)化しているようにも映るのだ。

 今のメディアは自分たちの利益のためなら、平気で権力と手を握る。戦前・戦中と同じように「不都合な真実」を国民に隠し続ける。こうして「報道の自由」を勝手に自滅させていくのだ。

「1号機の格納容器が壊れていた」

 快医学のセンスケさんから緊急情報が入ってきた。福島原発・1号機の格納容

器が破損していて毎時3.4トンもの冷却水が漏っているというのだ。本当か?

やはり・・・、避難の準備をしなくてはいけないのか?などいろんな想いが頭を

よぎった。 この報道、テレ朝とNHK以外は報道していないという。なぜ?国も

県も「美味しんぼ」の鼻血問題を叩き、あたかも福島は問題がないかの如き対応

をしているが、これが現実だ。まるで津波の二波、三波が間近に迫っているの

に、「ここにいて大丈夫ですよ」と言っているかのよう。やはり、何事も自分の

頭で考えなければならないのだ。
 以下に転載します。写真は2011年3月15日に爆発した福島原発の3号機と4号機のもの。(東京新聞より)

福島第一原発1号機 格納容器から燃料冷却水の8割が漏洩 放射性濃度最大237

万μシーベルト ほとんどのメディアが黙殺(日刊ゲンダイ)

 先週末に発表されたショッキングな数値をどれだけの国民が知っているだろう

か。東電は先月30日、福島第1原発の原子炉1号機について、「格納容器下部

の破損配管から、1時間あたり最大3.4トンの汚染水が漏れていると推計され

る」と明らかにした。

 1号機はメルトダウンした核燃料を冷やすため、1時間あたり4.4トンの注

水を続けている。その実に約8割が、格納容器の外に漏れ出しているわけだ。

 注入した水は当然、核燃料に触れて高濃度の汚染水となる。東電によると、漏

れ出した汚染水の放射能濃度は1時間あたり最大237万マイクロシーベルトに

達した。この数値はロボットなどを使った調査によって推計したもの。とてもじ

ゃないが、人間は近づけない深刻な汚染レベルだ。

 破損箇所をふさがない限り、汚染水のダダ漏れは続く。東電は「格納容器の他

の場所からも漏れており、今後もロボットを使って調査する」(広報部)と言う

から、食い止めるのは遠い先の話。毎時3.4トンなら1日81.6トン、1カ

月2448トン。これは1号機に限った量で、敷地全体では途方にくれるほど莫

大な量の汚染水が日々発生していることになる。

 事故発生から丸3年近く経つのに、ひたすら大量の汚染水を生み出し、その処

理に追われる堂々巡り。今なお「収束」と呼ぶには程遠い惨状を浮き彫りにする

データなのだが、驚いたのはメディアの対応である。

 今回の東電の発表をキチンと伝えたのは、民放キー局ではテレ朝のみ。NHK

も発表翌日の早朝5時台のニュースで伝えたが、視聴者の多い朝7時のニュース

のラインアップからは外した。全国紙はナント、「8割漏洩」を一行も伝えず、

完全に黙殺である。

 評論家の佐高信氏は、「3・11後も電力業界は自民党議員にカネを配り、原

発新増設を促す『模範回答』まで配布していた。メディアも同様です。3・11

後も有力スポンサーとして君臨し金の力でメディア支配を続けている。電力会社

に牛耳られたメディアに、原発の真相を伝える気概を求めるだけムリな話です」

と突き放した。むろん、福島原発の現状を報じないのは、元首相コンビが「脱原

発」を訴える都知事選の動向とも無関係ではないだろう。メディアは怖いのだ。

細川の支持が高まり、脱原発の世論が原子力ムラと一体化した既得権益を吹き飛

ばすことを。その証拠に細川・小泉の演説内容をほとんど報じない。前出のNH

K朝のニュースは都知事選の話題を一秒も伝えなかった。脱原発コンビの主張に

フタをするため、意図的に都知事選報道を矮小(わいしょう)化しているように

も映るのだ。

 今のメディアは自分たちの利益のためなら、平気で権力と手を握る。戦前・戦

中と同じように「不都合な真実」を国民に隠し続ける。こうして「報道の自由

」を勝手に自滅させていくのだ。

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2014/05/18

「高橋尚子杯ぎふ清流ハーフマラソン2014」 応援

「高橋尚子杯ぎふ清流ハーフマラソン2014」 
快晴の長良河畔に家族8人で応援に行きました。
娘婿2人が走りますので。

十八楼の少し南で応援しました。
先頭集団が来たところです。
黒い色の選手ばかりです。
川内選手は見当たりませんでした。
この後の集団の中にいたようです。

https://www.youtube.com/watch?v=4SQaawg0gsQ&feature=youtu.be

十八楼の前では大きなクレーンのようなカメラが選手を追いかけています。冷たい水のサービスが選手に力つけてます。
女子高生のチアガールの応援も。

すぐ横で十八楼の若女将がお子さんを抱いて応援しておられてご挨拶できました。

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江崎 忠男さんの写真

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猿は引退して、ネズミと猫はどちらが勝つか?  黒木 安馬さんから

猿は引退して、ネズミと猫はどちらが勝つか?  黒木 安馬さんから

 

 

ミッキーマウスと言えばディズニーランド。本来マウスはネズミだから、“ネズミーランド”と言ったほうがより正解かもしれないが、ネズミの楽園などと言ってしまえば天井裏の運動会じゃあるまいし、夢も希望もなくなる。お金が出て行くから“出銭(デゼニ)ランド”にすれば、足が遠のく。

 

さほど名前のイメージは大事である。

 

ネズミを襲うのは猫。とすれば、ディズニーランドの向こうを張ってキャットランドなるものがあってもおかしくない。その猫がキャラクターの楽園が、実はあるのだ。

 

東京ディズニーランドができたのは30年前。JALは園内に施設を公式提供しているので、一般オープニング前のスポンサー特別招待日ということで、全社員が家族連れで遊べる無料の丸一日があった。ところが、タダほど恐ろしいものはない、この日は世界中の空から鶴丸機がフライトキャンセルになるのではないかと思うほど日航ファミリーが黒山の人だかりで押しかけて、どのイベント会場も行列だらけ。閉口したのは、幾重にもなって往復するロープに並んで行列で順番待ちすると、何度も同僚や上司と向い合わせになって立ち止ったままになることになり、それもお互いの家族同伴で見たくもない顔に、したくもない長話をしなくてはいけない苦行だった。

 

1964年の東京オリンピック以降から1980年代は経済成長も右肩上がりで、高級車を持つ金持ちも沢山いた。そこに目を付けた、利根川河口の千葉県銚子対岸にある茨城県波崎生まれの野口氏は、東京で自家用車の運転手を派遣するという斬新な発想で大成功し、大新東(株)を立ち上げて躍進する。その頃、三井不動産と京成電鉄が協力して浦安海岸の埋立地に東京ディズニーランドを造る構想が本格化し、日夜のニュースになって人々は興奮していた。

 

(今だから言えることだが、三井不動産重役の子息が乗務員仲間だったので、情報は早かったし、開園後は色々と招待券など便宜を図ってもらったものだ)

 

アメリカから上陸するテーマパークに人気が集まるのであれば、日本だって独自のものがあればブームになるはずだと野口氏は直感する。和風と云えば、西欧化される明治維新前の江戸文化。そうだ、江戸村を造ったら面白いのでは! と、伊藤博文、高杉晋作、山県有朋などを輩出した吉田松陰の松下村塾や武家屋敷を頭に描いた。造るとすれば、その塾があった山口県萩がふさわしいと信じて調査に出かける。ところが、行ったことのある人は分るだろうが、風光明美ではあっても、とてつもなく辺鄙な日本海の山肌に沿うようにある山陰の小さな町で、交通は一本道のみで不便極まりないのである。その上、近くには秋吉台の鍾乳洞以外は目立った観光地が見当たらない。ここに数十億円規模のテーマパークを立てても、集客と売上は至難の業であることはだれの目にも一目瞭然だった。

 

考えられたのは、江戸を代表するのは徳川家康の墓である日光東照宮。観光客は多いし、中禅寺湖や鬼怒川温泉など集客量は通年ある。そこで、そのアイデアを日光市長に話したら二つ返事で飛びついてきた。ところがその市長が途中で落選して、建設候補地だったところも話がこじれて頓挫してしまう。

 

振り出しに戻ったころに、日光市近隣の今市などの市長村長たちが野口氏に面会にやってきた。日本鉱業の銅山があった山林15万坪をそっくりご用立てするので、是非一緒にやりませんか!との提案であった。

 

かくして1986年4月に「日光江戸村」は30億円の巨費を投じて見事に開園するのである。建物も従業員たちもすべて江戸風に統一。マスコットは、米国産ネズミを食ってしまう国産のネコ。それもただのドラ猫だと面白くない。江戸時代のネコだからチョンマゲをしている・・・そうだ、ネコ・ニャン・チョンマゲだから、『ニャン髷(まげ)』としよう!と、白い招きネコがチョン髷を結っているイメージを博報堂が発案する。

 

年間入場者150万人のパーク、いまでも等身大のキャラクター、ニャン髷の着ぐるみが園内に出没して人気者になっている。

 

創業者野口氏の息子さんである時代村の野口義和会長に案内されて園内を一日廻る。江戸風の建造物は屋敷から小物、風景まで忠実に再現されており、まるでタイムマシーンに乗った雰囲気に包まれる。子供たちも本物の忍者の衣装に着替えて、すっかりその気になって走り回っている。圧巻は、まっ暗い忍者屋敷で、映画やTVでもここまで見事に演技はできないだろうと思う迫力と天地を駆け巡る身軽な動き、火花散る凄みのある剣さばきの戦い。それに、よくもまああここまで綺麗な女性が目の前にいたものだと思われる映画みたいに眩しいばかりの花魁(おいらん)が、華麗で重厚見事な出で立ちと立ち居振る舞いで現れ、妖艶に演じる舞台の数々。あたかも歌舞伎座の舞台際かぶりつきで観ている贅沢さが延々と続くのである。

 

後から聞いて納得したが、園内アトラクションの俳優たちは日光江戸村劇団員でありファンも多く存在しているとか。花魁に至っては、ミス江戸村選考会を毎年コンテスト開催し、入賞者には大金の賞金が出て、踊りや演技など本格的な教育が施されて数年かけてプロ中のプロへ養成するのだそうだ。確かに、舞台の袖から厳しい目で弟子たちを見つめていた踊りの師匠の姿があった。忍者たちも映画出演も頻繁にあるとか。真迫の臨場感は、京都太秦(うずまさ)の撮影所を上回る。惜しむらくは、本物の捕りものが路上で行われるとか、突然の意表をついた敵討ちなどの斬り合いが目の前で始まるとか、観客を巻き込んでの雰囲気がもっとあれば面白いと思った。サプライズの連続と自分参加型でないと、お客さまは飽きてしまうのが現代の傾向である。

 

お客がお客を呼び込むリピートをどのように仕掛ける戦略を立てるのか、そこからが必殺仕掛人である私の出番なのだと、密かに思ったものだ (*^_^*)v ~♪

 

次の館へとこれでもかと続く大きな屋敷群や旅籠に茶屋街、土産物屋・・・全部を見て回るには一日では足りそうにもなかった。

 

場所がら、通勤を考えて100人が入れる寮も併設され、社内結婚が多いのが嬉しいことの一つだと野口会長は目を細めた。新入社員はいつでも大歓迎で、特に和食の板前さんなどは急募だとか。楽しい世界で、楽しみながら仕事ができるのは最幸なことである。

 

今回の訪問の切っ掛けになったのは、実は新聞記事の「さらば、日光猿軍団」だった。野口会長にはいつでもどうぞと言われていたので、猿軍団が解散廃止される今年中には何としてもと、急な訪問になった。

 

“お猿の学校”の猿さんたちも高齢化の押し寄せる年波には勝てず、28匹の猿たちも60歳前後だとか。高齢化も確かに大きな原因だろうが、私から観ると演出力と企画力のマンネリ化で行き詰っている気がした。斬新な発想の若い後継者が現れれば、あえて廃園にしなくても、老猿たちの活躍場はまだまだあると感じた。少なからず、猿たちはこれで終わって、引退老後生活に引きこもりたいとは思っていないはずだ。

 

寂しい限りではあるが、それも時代の流れか・・・。驚いたのは、その日光猿軍団の間中俊雄さんもすでに65歳だが、もともと江戸村でテナントとして甘栗と漬物の店を出していた人だった。可愛がっている猿を店頭に繋いで曲芸をさせていたのが高じて猿の学校へとなっていったとのこと。

 

鴨長明の方丈記、“行く川のながれは絶えずして、しかももと水にあらず。よどみに浮ぶ泡沫(うたかた)は、かつ 消えかつ結びて久しくとゞまるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し・・・”、

 

猿も人も、ブームも時代とともに変わる。日々変化する環境に適応できる柔軟な姿勢があるかどうかが、生き延びる唯一の手段。

 

長島茂雄さんが学生時代に、野球の練習で疲れて英語の時間に居眠りしていたとか。その時、先生が、「おい、長島、I live in Tokyo を過去形に直してみろ!」と振ったそうだ。長島さんは、目をこすりながら困った顔で答えたとか、「I live ~….I live in ----EDO !!」確かに、東京の過去は江戸だ~♪これは、後日、長島さんに機内で直接確かめたことがある。「そんなことは言いませんよ。まっ、失敗は成功のmotherですからねえ~~」

 

うん、こんな調子で、間違いなく言ったはずだと不思議と確信したものである。

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2014/05/16

ICTフォーラム「はやぶさ」を成功に導いた情報通信技く その後・パートⅡ

  ICTフォーラム「はやぶさ」を成功に導いた情報通信技く
その後・パートⅡ
宇宙航空研究開発機構(JAXA) 宇宙科学研究所
久保田 孝教授の話をきいてきました。
講演を聞いたメモです。
、若田飛行士とは同じ高校の同級生です。
、はやぶさ2     1との違い アンテナ  2個ある
 
   2014    打ち上げ
       いま各務ヶ原ではやぶさ2を組み立て中
       組み立ててからつくばへ持っていく
       そこから種子島へ持って行って打ち上げる。
   2018    小惑星へ到着 
   2020     戻ってくる   東京2020オリンピック・パラリンピック が終わった頃
、宇宙が出来てから138億年
   最近わかったこと
   どんどん拡がっている
、太陽系    46億年前
 
、宇宙が出来る前のことがわかってきた    
  見た人は誰もいないが
  数学でわかる
  虚数でわかるようになった
、日本がやりたいこと
  宇宙の最先端を見たい  一番端っこはどんなだろうか?
、はやぶさ2
生命の始まりを調べる
   はやぶさをブラッシュアップする
 我々はどこから来たのだろう    見つける
、ロケット     H2A
、星    見つけた人が名前をつけることが出来る
、小惑星    望遠鏡で見えるもの   10万個ある
   見えないものは数限りない
    火星と木星の間にある
     タイプがいろいろある
、はやぶさ2
前と同じ設計で作る
エンジン   10倍燃費がいい  イオンエンジンを開発
アンテナ    3種類
民間企業    前と同じ
新しい会社も入っている
重さ600キロ
アンテナ     長野県臼田
メンバー     50人
30~40メンバー
今回も同じ年代でやる
ミッション
  軌道    火星の内側
      地球に近ずく小惑星を探して行く
       5000個ある  その内の一個
、いとかわ    自転   12時間
 平らなところほとんどない
 60メートルくらいはあると思ったが
カプセルの初期分析
   50個程度
20ミクロンの奇跡
  、はやぶさの仕事で一番大事なこと
     チームワーク だ
講演録音 とパワーポイントはこちら
 

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2014/05/11

はんだ郷土史研究会  26年5月号

はんだ郷土史研究会  26年5月号 を送っていただきました。

 

 

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知られざる国歌 「君が代」 黒木 安馬さんから

黒木 安馬さんから

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 知られざる国歌 「君が代」

 

 

『君が代は、千代に八千代にさざれ、石の巌となりて、苔のむすまで~』は、日本の“国歌”として誰でも歌ったことがあるだろう。

 

ところが意外なことに、国歌として正式に法で確定された事実は、かつて一度もない!のである。

 

それが、戦後の日教組を中心とした左翼的反対派が、国歌、日の丸=戦争に結びつく!!という極端な短絡思考で、生徒指導も含めて、「起立拒否」などで抵抗する、口実の一つにもなっている。

 

国際線乗務30年間、地球を860周もしてきたが、祖国の国歌と国旗を拒否する国民は、テロリスト以外は聞いたことが無い。

 

 

江戸幕府が終わった明治維新の1869年(明治2年)、横浜のイギリス公使館警護の英国歩兵軍楽隊に、若い薩摩藩士たちが軍楽を学びに来ていた。日本にも西洋式の軍楽隊を作るためだ。

 

その年の夏7月には、ヴィクトリア女王の次男であるエディンバラ公アフルレッド王子が来日することになっており、儀礼式典では国歌演奏が国として必要であったが、まだ我が文明開化ほやほやの日本には、国歌と言う概念すら無かった。

 

イギリス軍楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントンは、そこで急ぎ日本にも国歌を作ることを明治新政府に提言した。フェントンは、砲兵大隊長・大山巌と相談し、大山らが幼少の頃から愛唱していた『君が代』を選びだし、日本の明治兵隊の鼓笛隊でも演奏が出来るように、その詩に急ぎ曲を付けることになった。

 

平安時代の『古今和歌集』、“賀”の部に、“題知らず、読み人知らず”で、「我が君は千世に八千世に・・・」と古くからあり、鎌倉時代でも目出度い歌として人々に喜ばれていた。我が君とは、周りから祝福されて“賀”を受ける立場にある者のことであり、もともとそれは天皇を意味することではなく、“あなた”の意味でしかない。『君が代は』は、室町時代以後は、物語や御伽草子(おとぎぞうし)、謡曲、小唄、浄瑠璃、常磐津、長唄、舟唄、盆踊りなど多方面で歌われた。静御前が源頼朝の前で舞った時にも謡ったと言う話も残っていて、酒宴の最後のおさめ歌でもあった。江戸時代にも口ずさみの歌として、俗謡や俳諧でもよく使われたのである。

 

 

『君が代は~、千代に八千代にさざれ~、石の巌となりて~、苔のむすまで~』と、歌いながら息継ぎをして切るが、だれも不思議に思わないのが、私には若い頃から不思議だった。

 

どの辞書で調べても“サザレ”の語彙はなく、有るのは、“さざれ石”だけであったからだ。

 

さざれ石(細石、さざれいし)は、もともと小さな石の意味だが、長い年月をかけて小石の隙間に石灰岩、炭酸カルシウムや水酸化鉄が、雨水で溶解して粘着力の強い乳状液で少しずつ小石を凝結し、石灰質の作用でコンクリート状に固まって岩の塊になる。学術的には「石灰質角礫岩」で、滋賀県・岐阜県境の伊吹山が主要産地である。歌詞中の、さざれ石(細石)は文字通り、細かい石・小石の意であり、それらの小石が巌(いわお)となり、さらにその上に苔が生えるまでの過程が、非常に長い年月を表し、鶴亀の長寿と繁栄を比喩するものとして用いられてきたわけである。

 

とすれば、『さざれ~~♪、 石の巌となりて~~♪』と、フレーズを分断するのはいかにも不自然である。

 

どうして、そうなってしまったのか?

 

だれも説明や解説を書いているのをまだ見たことが無いが、私の推測では、イギリス人フェントンは、その古今和歌集の日本語の意味がよく分からないまま、曲作りをした---!!ということではないだろうか。どこで歌詞を切っていいのかなど、ほとんど念頭になかったのではないか。

 

当時の西洋文化、舶来の音楽、その文明開化の先生にイチャモンをつけるほどの度量は、脱亜入欧とザンギリ頭の世相ではどの日本人も持ち合わせていなかったと思われる。

 

 

王子来日の式典で国歌として演奏されたかどうかの記録は残っていないが、翌年の明治3年9月8日、東京越中島で薩摩・長州・土佐藩の陸軍観兵式で、薩摩藩軍楽隊が演奏した、と記録にある。。ところが、これがあまりにもバタ臭くて日本人には極めて不評だったとあり、誰も見向きもせずに、6年後の天長節での演奏を最後に、海軍軍楽長・中村祐康が楽譜の改訂を海軍省に上申した。

 

だが、西南戦争が勃発して、改訂は延び延びとなり、1880年になってようやく海軍省が宮内省に軍楽曲に相応しい曲をと申しいれた。中村を始め、陸軍の西元義豊、宮内省の林広守、海軍の教師ドイツ人エッケルトが委員に任命された。林広守の長男・林広季と奥好義が何のためのものか分からずに曲をいじり、林広守が手を入れ、海軍軍楽稽古場で幾度か合奏させながら練り上げたのが今日の『君が代』の曲になった。

 

その年の天長節では軍楽曲として演奏され、エッケルトは、『大日本礼式(君が代の譜)・Japaneshe Hymne(日本の讃美歌)』、と題した本を出版して世界に紹介し、海軍省も各条約国へ公文書で通知した。

 

ところが一方では宮内省も文部省も、それぞれ“国歌”を作ろうとしていたのだが、いずれも失敗している。

 

そして時間とともに、特に法律で布告することもなく、いつの間にか世界情勢激動の波の中で、『君が代』は、我が国の国歌『national anthem』として定着して行くことになった。

 

1893年(明治26)には、文部省告示として小学校儀式唱歌として「君が代」が採用され、日清・日露戦争を経て、満州事変、太平洋戦争と進む中で、日の丸の旗とともに、万歳三唱、“国歌斉唱”がさかんに行われるようになる。

 

ところが1945年、敗戦を迎えた占領軍支配下になると、神話などはことごとく悪夢の元凶として否定される言論自由の戦後になると世論は一変する。大本営発表の御用広告塔だった朝日新聞などは手の裏を返したように立場を豹変させる。民主主義の世の中に、“天皇陛下万歳”と同等に天皇をたたえる“君が代”とはなんたることか、主権在民の日本国憲法違反である! 帝国主義を称賛し戦争を繰り返そうとするものだ!と批判が飛び出す始末になる。

 

もともと“あなた”であった意味が、いつのまにか「上御一人(かみごいちにん)」とされ、明治以降は、明らかに天皇の意味になる。江戸鎖国270年から瞬く間の開国と明治維新、挙国一致して諸外国へ太刀打ちできる中央集権国家にするためには、天皇陛下をその旗頭として絶対的中心に置かなければならない必要性があったのだ。

 

 

オリンピックなどで、「君が代」を世界中に披露させる機会が昨今は増えたが、西洋の行進曲風の力強い曲調と比較すれば、いかにも間延びした雅楽風で重くて暗い・・・などの批評もあるにはある。

 

だが、不思議なもので、このメロディーを異国で耳にすると、全く違うものになる。

 

妙に背筋がしゃんとして、なにか気高い荘厳な雰囲気になるのである。祖先や祖国の、累々と伝え流れる我が遺伝子が、ピシッとONになるのである。

 

もう一度言おう、世界の空を30年間、地球860周のフライトをして地球を眺めて来たが、自国の国旗や国歌に敬意を払うどころが、敵意を示す人たちがいる国は、テロリストか無政府主義者がいる国以外に観たことが無い。

 

 

いろんな講演先で『君が代』斉唱の機会が多いが、私は、この重厚さと荘厳さが大好きである。

 

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大垣祭の宵山

大垣祭の宵山を見てきました。
圧巻は八幡神社の前で山車がクルクルクルクルと右回り左回りをすることです。
それから山車の上でかわいい子供さんが踊っていますが
山車が動きながら踊りを続けているのに感激しましたね。
立派なお祭りです。
昼間も見たいですね。
大垣祭の宵山を見てきました。
圧巻は八幡神社の前で山車がクルクルクルクルと右回り左回りをすることです。

それから山車の上でかわいい子供さんが踊っていますが
山車が動きながら踊りを続けているのに感激しましたね。
立派なお祭りです。

昼間も見たいですね。

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2014/05/06

260504 新緑を求めて  郡上市大和

新緑を求めて郡上市

大和の古今伝授の里

フィールドミュージ

アムへ行ってきまし

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26-05-03  市制六十周年 竹鼻祭り

26-05-03  市制六十周年 竹鼻祭り

お天気にも恵まれて最高のお祭りでした。
13両の山車が総出でよかったです。
山車の曳き手のボランティアも大勢参加してくれました。

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2014/05/01

<東海歴史散策 113> 2014年 5月 1日号 珍 し い 石 屋 根 倉 庫 が 見 ら れ る          国 境 の 島 , 対 馬( 長崎県 )  

川田 きし江様から

<東海歴史散策 113> 2014年 5月 1日号


珍 し い 石 屋 根 倉 庫 が 見 ら れ る          国 境 の 島 , 対 馬( 長崎県 )  
福岡の北西焼く130KMの日本海にある対馬。佐渡島と奄 美大島につぐ大きな有人島である。わずか50KMほどの対馬 海峡を隔てて、韓国と対峙している。対馬海峡を挟んで釜山を 望む鰐浦には、大陸や朝鮮半島に見られる「ウミテラシ」と呼 ぶ真っ白い花が咲く。
 島の西側の椎根(しいね)上槻(ごうつき)久田田舎等、こ の付近でしか見ることができない石屋根の倉庫がある。倉庫の 屋根が石積みで、冬の強風で屋根が飛ばされないようにするた めであったといわれている。  厚い砂岩の板石は、浅海の島山から運ばれ、瓦より堅固な石 材が容易に得られた。頁岩(けつがん)は、太古の昔に湖や海 の底だったところに粘土質の泥が堆積して固まって岩石になっ たもので、地層によって剥離しやすい。対馬では浅茅湾に浮か ぶ島山島で産出したので島山石といわれている。
 人家の火災等から小屋だけは残るように配慮され、人家と小 屋を離して建てられている。人家は両側の山際一列に並び、中 央を流れる川の両岸は小屋が建てられている。倉庫には衣類の 櫃と穀類の俵が格納されていた。高床式の倉庫が群をなしてい た。  便利さト引き換えに、大自然の広い空、山の緑、新鮮な海山 の幸と文化。本土とは全く違った心のゆとりなどが、流れる時 間の感覚など、たっぷり残されている。  
Kawada 日本列島自体、海に囲まれている島であり、それぞれの島に は長い歴史がある。対馬では珍しく白砂が続く小茂田浜は、7 00年ほど前の1274年文永の役には900余叟の元。高麗 連合軍の来襲を受けたところである。  蜂蜜は対馬の大切な食文化の一つである。森の切り株の筒が 何本も立つ蜜洞という蜂蜜を集める巣箱が山の斜面に見られた。

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