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2013/07/06

 黒木 安馬さんから  「一所懸命」

「一所懸命」という言葉がある。


「一生懸命」と書く事もあるが、若干意味合いが異なる。
長い平安時代の貴族支配による荘園制度が崩れ始め、
それまではお雇い用心棒だった武士達が台頭して、武家が主役の鎌倉時代の幕開けとなる。
自力開墾による田畑の個人所有が各地で始まった。
が、時代は上下や恩義もなく主従関係がいつ入れ替わってもおかしくない、
弱肉強食さながらの戦国、下克上でもある。
いつ何処の敵に攻め込まれて奪取されるか分からない不安極まりない時代でもあった。
その自分の大切な土地「一所」を、命を懸けて「懸命」に護り通す決死の意気込み、それを言う。

国際線乗務で、「野良牛!」が繁華街を闊歩するインドには度々フライトをした。
野良犬と違い、インドでは牛は神さまの使いとして神聖なものだから、
やすやすと酷使することは許されず、将軍綱吉の“生類憐みの令”よろしく、
お牛さまの前ではVIPの車もよけて通らなくてはいけない。
もちろん牛肉を食するなんぞ、もってのほかである。
イスラムで豚肉がタブーであるように、ヒンズーでは牛肉は禁断である。

釈迦が菩提樹の下で、骨と皮になる極限まで断食をして悟りの境地に挑んだが、
ついに達せなかった。
ヨロヨロになって杖をつきながら、あぜ道を歩いていた。
それを憐れんだ少女が、絞りたての牛乳を恵んでくれる。
釈迦は、それを飲み干すと同時に、パッと悟りを開いた・・・と伝説にある。

空腹すぎても悟りは開けない、腹が減っては、いい糞ができない!ということか。

その少女の名前は、スジャータである。

週2便の割合で飛んでいるJALのニューデリー便。
到着して、次の便が来るまで滞在が始まったのは良かったが、
次の日本からの便がエンジン・トラブルで欠航し、来なくなってしまった。
幸いかな、何もすることなく約10日間も日中気温47℃の大地に留まる事になった。
インドは1200種以上の身分制度、カーストが残っている。
奴隷以下とされた不可蝕賎民(ふかしょくせんみん・アンタッチャブル)階層の末裔は、
その貧困な地位から逃れる事はまだ難しい。
タージマハールなどの観光地に向かう4、5時間も掛かる車の中から、
いたいけな裸に近い少女がまだヘソの緒が付いたままの赤ん坊を抱っこしているのが、
直ぐ近くの貧民窟に見える。
視線が重なる。
無意識に目をそらそうとするが、どうしても見てしまう。
が、少女の輝く黒目は透き通っていて驚くほど美しい。
その環境からは想像もできないほど澄み切って希望に満ちているような眼なのである。
土煙が巻き上がる乾ききった褐色の不毛の大地で、豚や羊を追いかけて明るく走り回る子供達。
昔ネパールで出会った人々の眼もそうであった。
我々が小さかった頃には日本中何処にでもいたはずの,
もう随分前に忘れてしまっていたハナ垂れ小僧や、赤いほっぺのお姉ちゃんたちを、
わが少年時代の郷愁とともに彷彿とさせるのである。

かえりみるに、あの希望に燃える、夢見る美しい瞳はどこに行ってしまったのだろうかと、
わが同輩の日本人を見やる。
そこには、あなたの夢は何ですか?と問われて、即座に一つも出てこない、
シャネルやグッチで着飾った「フル・スタマック、エンプティ・ハート(飽食&能天気)」の人々が
傍らの座席に大勢いたのである。

水をはったバケツにねずみを投げ込み、上から真っ黒い蓋をする。
やがて力尽きて、約3分で溺れ死ぬ。
同じように別のねずみを放り込み、蓋に針で穴を開けてやるとどうなるか?
そのねずみは30分以上も生き長らえる。
わずかな一条の光が希望となって10倍も左右するのである。

刑期が決まっている囚人には、あと何日という目標の明確な望みがある。
人には、飢餓や貧困より、もっと衝撃的に生きるすべを奪うものがある。
アウシュビッツに収容された人たちがそうであったように、
死と言う終わりに向かうだけの片道切符、“絶望”がそうである。
その一縷の望みとは何か。

生活が貧困であるからこそ、どんな小さな出来事にも喜び感動し、
人は夢を見て明日に向かって光明を見出す。
だが、決してそれは精神の貧しさではない。
どころか、心は我々以上に豊かなのかも知れない。
そこには同じ環境を共有して協力し合っている、肌を摺り寄せあう仲間がひしめいている。
環境が心を変えるのではなく、心が環境を変える。

人もし自ら足れりとせば、貧といえども苦しからず。
インドは仏陀の故郷である。

石庭で有名な、京都の立命館大学に近い「龍安寺」。
ほうき目で波紋を付けた、幅は25メートル、奥行は10メートルほどの土塀に囲まれた、
庭に白砂を敷き詰めてある名勝の寺である。
石庭には15個の大小の岩を点在させただけの簡素なもので、ほかには何も置いていない。
ただ、そこには仕掛けがあり、堂内の広い廊下のどこから見ても、
15個のうちの1個は必ず隠れていて、14個しか見えないようになっている。
ただし、普段は入れない奥の間の中心にある大僧正だけが座する場所からは
15個総てが見えるようになっているとか。
満月の15夜、15の数字は完全・完結を表す。
悟りの境地に至った大僧正の地位とも取れる。
15に一つ足りない14は、未熟・不完全さを意味する。

日光東照宮の陽明門に見られるように、
万物は完成した時点から崩壊が始まる、
と建造物をあえて不完全なままにしておく思想背景がある。

磨きこまれた広い廊下を回って裏手に行くと、そこに閑静な池があり、
水戸黄門・徳川光圀が寄進したという古い蹲(つくばい)の石には、こう刻んである。
中央に「口」を配し、上から右回りで「五・隹・疋・矢」と書いてある。
「口」と合わせると「吾、唯・足・知」(われ、ただ足るを知る)」となる。
完結・終焉を目指すことは生きるエネルギーの糧ともなるが、
重要なことはそれに至る過程を充足させることであるとする。

無いものを嘆くより、今あるものに感謝をしよう、と。

霜にうたれた紅葉は春の桃の花よりももっと赤い。
若いときに旅をせねば、老いてからの物語もない。

豚を飼うには2匹以上でと相場がある。
1匹だけで飼うと、競って食べる事をしないから本来の豚にならない。
貧しくとも、気心の知れた仲間と夜明けまで、
楽しく夢と希望を語り合いながら飲み明かす心豊かな日々の些細な生活。
あなたが護り通したい一所懸命とは、何であろうか?

一時間の幸福が欲しいなら昼寝をしなさい。
一日の幸福が欲しいなら釣りに行きなさい。
一ヵ月の幸福が欲しいなら結婚しなさい。
一年の幸福が欲しいなら財産を相続しなさい。
一生の幸福が欲しいなら人を助けなさい
──中国のことわざである。

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