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2012/11/04

「100年前の恩を忘れない遠い国の人々」

黒木 安馬さん 【3%の会】より

 

「100年前の恩を忘れない遠い国の人々」

 

「本州最南端の町、串本市の上空をただいま通過中です」、機長の機内アナウンスが天井のスピーカーから流れる。「市ではなく、串本町ですよ!」と、直ぐにコックピットに連絡を入れるが、時速千kmで1万m上空を飛行中、紀伊半島南端の黒潮に突き出している潮岬ははるか後方に、あっという間に小さくなっていく。

 

1985年と言う年は、私にとって様々なことがあった。2月に次男が誕生し、夏には自ら企画してタレントたちも口説いてきた、機内24席の座席を取り払ってステージを作り、総てのTV局やマスコミ総動員での、世界初の一万m上空・北島三郎機上コンサートを実現させて無事に着陸、なんと、その翌日には御巣鷹山にジャンボ機が墜落するという悲惨な大事故が発生した。

 

その同じ年の1985年3月17日、イランとイラクとの戦争がますます激しくなり、イラクのサダム・フセイン大統領は、イラン上空を飛行する航空機を48時間後には無差別に撃墜すると宣言。イランにまだ残って脱出の飛行機を待っていた在留日本人の216名は恐怖におののいた。

 

日本政府には平和憲法9条の壁があり、自衛隊機を海外派遣することができない。危険すぎるから飛ぶわけにはいかない!と一部左派の日航乗員組合の反対で、当時は唯一の国際線である頼みのJAL救援機も飛び立てないまま、地球上の世界時間はいたずらに流れるだけであった。

 

ところが絶望の空に、一機のトルコ航空機が突如、姿を現し、イラン首都のテヘラン・メーラバッド空港へ進入、機影を大きくしながら着陸してきた。ドアを開けるや、大急ぎでその飛行機は日本人全員を乗せて離陸し、なんと攻撃開始の1時間15分前! 映画みたいに危機一髪の脱出劇を成し遂げる。

 

我が国の救援機離陸がOKになり次第、すぐにでも乗務できるように、日本の空港でスタンバイしていた我々乗務員は、中東の隣国通しだから、そのような芸当ができたのだろうぐらいに、軽く考えていた。

 

ところが、それからはるか数年後に、表参道近くにある大使館に出かけてトルコ大使に会った時に、当時のいきさつを詳しく聞いて、驚いた。

 

120年前の明治23年、当時のトルコ・オスマン帝国から、11ヶ月以上もかけて、全長76mの木造製軍艦「エルトゥールル号」が国際親善の為はるばる日本にやってきた。明治天皇に謁見するなど3ヶ月の滞在後、横浜から9月14日に帰国の途に着いた。ところが、9月16日夜9時過ぎ、紀伊半島沖で台風の直撃を受けて疾風怒濤に翻弄される。木の葉のように流された船は、串本にある日本最古の石造の灯台が立つ、樫野埼の断崖下にある、魔の岩礁地帯と恐れられた「船甲羅」に激突して大破、灼熱の機関室エンジンが水をかぶって蒸気爆発、船は吹っ飛ぶ。

 

パシャ提督を始めとする656名の乗組員は、真っ暗闇の大波に呑み込まれて遭難。瀕死の重傷を負った乗員の一人が、風雨ににじむ灯台の光を頼りに岸壁をよじ登る。言葉は分からないが必死で助けを求めている異国人の尋常ではない姿を目にした村人は、緊急事態に気づく。

 

50軒ほどある樫野の村人たちは半鐘を鳴らし、暴風雨の中を、深夜の救助に立ち挙がる。

 

自分のフンドシを脱いで、それを帯がわりにして、波打ち際に打ち上げられた瀕死の負傷者たちを、すっ裸になって背負い、60mの絶壁を命がけでよじ登る---手足が滑ったら自分も真っ逆さまに奈落の底へ。その気が遠くなるほどの、危険で体力消耗限界の繰り返し。

 

火を焚いて負傷者を暖め、女房たちは裸になって、震える異邦人を素肌で抱いて温めた。貧しい寒村、なけなしの乏しい食料を持ち寄って、みんなで炊き出し、ふだんは誰も食べることのない非常時用の食用だが、大切な鶏を捕まえ、それを潰して、貴重な肉を食べさせ、言葉も通じないまま、懸命の治療を何日も続けた。そして、69名の、どこの国か分からない、知らない異国人たちの命は救われた。村人にとっては、瀕死の重傷で生死をさまよっている人たちを助けてあげることで精いっぱい、どこの国であろうと、そんなことは海に生きる人間として、どうでもよかった。

 

事故から20日後、日本海軍の「比叡」と「金剛」の二隻は、彼らを乗せ、村人たちが海底に潜って可能な限り回収した遺品の数々と全国から寄せられた義援金とともに、トルコへ送り届ける航海に出ることになる。

 

その義捐金は、24歳の若き山田寅次郎が、名文を新聞に投書して、決して豊かでもない、明日の暮らしにも困っているはずの日本国民を感動させ、全国から浄財を集めた。現在の金額にしてなんと一億円以上・・・。

 

『近い将来に日本と修好条約を結ぶべく、アジア大陸の西端よりはるばる1年もかけて来日して、よしみを結びながら、不運にも熊野灘の暴風雨に呑まれし心情を思えば、胸張り裂ける思いなり。同じアジアの民として、犠牲者たりし人々の心情、いかばかりなりや!』

 

トルコへ向かう我が国の軍艦には、「本日天気晴朗なれども浪高し」の日露戦争でバルチック艦隊攻撃時に打電された電文で有名になる、後の連合艦隊作戦参謀海軍中将、まだ兵学校を卒業したばかりの秋山真之(さねゆき)訓練生も乗船していた。司馬遼太郎「坂之上の雲」にも出てくるが、歴史的にはさらに有名な信号文、「皇国の興廃この一戦に在リ、各員一層奮励努力せよ」 も秋山の作である。この時の国を越えた貴重なトルコ航海体験が、後の秋山を大きな人間に育てたと言われている。

 

駐日トルコ大使は私に言った。「エルトゥールル号事故での献身的な日本人の救助活動は、今でも我が国では子供でも知っている伝説です。私も小学校の歴史教科書で学びました。日本ではなぜなのか理解できませんが、今の日本人が知らないだけですよ。だからこそあの時は、テヘランで困っている日本に今こそ恩返しをしようと、わが身の危険を顧みずに、トルコ航空機は飛んだのです」

 

何の歴史も知らない、いや戦後教育で何も知らされていない昨今の日本人、串本が、熊野が、南紀が・・・と、大した関心ごとで無いのかも知れない。だが・・・・・・・・・・・

 

熊野地域は、奈良に大和朝廷を開くべく、天照大神生誕の高千穂の秘境、九州日向(ひゅうが)国から、船に乗ってやって来た神武天皇が、最初に上陸したところである。その山深い未知の国、紀伊半島南端で大和への道案内役を果たしたのが、太陽に住んでいると神話で言われる3本足の八咫烏(やたがらす)。太陽の黒点は、そのヤタガラスそのものなのであり、3本足は、天・地・人を制すと言われる。

 

それが、日本サッカー協会・JFAが胸に着けているワッペン、シンボルになっている。鷲でも鳩でもなく、普通のカラスでもなく、太陽の中にすむ八咫烏(やたがらす)なのである。熊野が近代サッカーを我が国に紹介した中村覚之助の出身地だから、それに敬意を表しているのである。サッカーファンが、そんなことは、つゆ知らなくても全然問題はないだろう。

 

だが、神武天皇が熊野に上陸して、奈良に大和朝廷を開き、初代天皇に即位した日が2月11日であり、だからその日が日本の建国記念日になっている・・・、ということを知っている人が何人いるだろうか?学校の先生ですらもほとんど知らない人が多くて、講演会場で驚くことが多い。

 

日の丸、国旗掲揚には反対、君が代・国歌斉唱には起立しない・・・何でも反対しながらも、サッカーの国際試合では、ほっぺたに日の丸を描いて熱狂するヤカラ。

 

世界の空を30年間も廻ってみて、これほど自分の国の歴史を顧みない、少なからず、エルトゥールル号救済などの歴史事実だけでも、ちゃんと子供たちに、後世に教え伝えようともしない民族は、他には、まずいない。

 

「自国の文化歴史を否定した時、その国は必ずや滅ぶ運命にある!」古代メソポタミヤの言い伝えである。

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