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2012/10/27

「万年筆とノートで盗んだ琥珀色の国宝」

3%の会  というのがあります。 http://www.3percent-club.com/3percentclub.html

日本航空のチーフパーサーだった黒木 安馬さんがやっていらっしゃいます。

そこから今朝来たメルマガにこんな記事がありました。

ニッカウィスキー 発祥の物語です。

私はこの話の最後の方に出てくる二代目 竹鶴威さんから
直接 ご本人が作っていただいた水割りを飲んだことがあ
り、いまその時のおいしさを思い出しながら読みました。
 「万年筆とノートで盗んだ琥珀色の国宝」
“クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史が変っていただろう”・・・
それは古代エジプト絶世の美女、
シーザーを魅了したあのクレオパトラ女王のことだと誰でも思っている。
ところが、これは17世紀フランスの哲学者パスカルが『パンセ(随想録)』に書いた、紀元前121年のシリア女王、“クレオパトラ・ティア”のことなのである。
セブン・イレブンの看板、少々英語のスペルが違うのはお気づきだろうか?
SEVEN─ELEVEnと最後のnだけが小文字になっているのだ。
見過ごしているものが回りには山とあるもの。
 『007は二度死ぬ』でジェームズ・ボンドがウイスキーを飲む場面で出てくる、愛称ダルマの“サントリー・オールド”、
オールド・パーにあやかって名づけられた我が国の銘酒だが、ボトル上部のラベルに書かれた“寿”の文字は、お祝いの意味ではない。サントリー創業者、鳥井信治郎の酒屋『寿(ことぶき)屋』からきている。
足袋底にゴムを貼り付けて地下足袋を考案し、世界最大のタイヤメーカーにまで成長させた石橋正二郎。
その石橋を英語流に逆転、ブリッジ(橋)+ストーン(石)に合成して、タイヤの世界的ブランドだったファイアストン企業名を真似て『ブリヂストン』と銘々。
発売中だった赤玉ポートワインの赤玉を太陽に見立ててサン(SUN)とし、これに鳥井の姓をつけて「SUN鳥井」、サントリーとしたのも似ている。
時期はいずれも昭和初期である
“一本の万年筆とノートで英国のドル箱であるウイスキーづくりの秘密を盗んでいった日本の若者がいた”と、イギリスの首相に言わせた、その実物のノートを見に、北海道まで飛んできた。
新千歳空港から札幌市内を抜け、
右手に石狩湾の日本海を眺めながら銭函(ぜにばこ)、小樽と、西へ100km以上も走ると、
積丹半島の付け根で静かに広がる大地に、余市(よいち)町がある。
私が訪れた翌日から粉雪が舞い始めたという晩秋に、
どこまでも澄み切った青空に重厚な石造りの洋風建築群がそびえていた。
“ニッカウヰスキー”発祥の地である余市蒸留所、
凛と澄み切った寒風に混じって
発酵アルコールの芳醇な匂いが流れてくる広大な敷地に足を踏み入れる。
竹鶴政孝は、広島市と尾道市の中間にある広島空港の地元、竹原町にある造り酒屋の三男として明治27年に生まれる。
“酒はな、一度死んだ米をもう一度生き返らせてつくるんだ”と口癖のように言う父の言葉で育ち、大阪大学醸造科へ進学する。
広島の高校の寮生活時代では、一つ下に竹鶴の布団の上げ下ろし係だった、後に総理大臣となる池田勇人がおり、
池田総理は国際的なパーティーでは国産ウイスキーを使うように指示していたと言う逸話もある。
竹鶴は大学で洋酒に興味を持った。
当時の日本のウイスキーは、中性アルコールに甘味料や香料、カラメル色素を加えた三流国並のイミテーションだった。
卒業後は、大手洋酒メーカーの摂津酒造(現・宝酒造)に入社する。その2年後、社長からスコットランドに留学して
本場スコッチ・ウイスキー製法を勉強してくるように社命がくだる。
その年は、日本・英国・フランス・ロシアの連合国と、
ドイツ・オーストリア・トルコなどの同盟国が戦った第一次世界大戦が、ドイツ側の敗戦で終わったばかりの1918年であった。松下幸之助が松下電気器具製作所を設立したのもこの年である。因みに、明治維新後の文明開化で後進国から発展し始めた極東の小国日本が、大国ロシアを破って世界を驚かせた日露戦争が1904年。
明治天皇の崩御、大西洋で2223人を乗せたタイタニック号沈没が1912年である。
 
スコットランドに渡ってグラスゴー大学応用科学に留学し、
ハイランドの大地に点在している蒸留所をつぶさに訪問して
本場スコッチの製造法を学ぶ日々が続いた。
蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を習得したいため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除も買って出た。
幼い頃から柔道を習っていた竹鶴は、摂津酒造に入社した頃に徴兵検査に呼び出され、甲種合格になったからで兵役につかなくてはいけないと覚悟していたが、「アルコール製造は火薬製造に必要な技術、軍需産業に従事するように」
と判断されて、わざと乙種合格とされ、軍隊に入隊せずにすんだ経験がある。
グラスゴーには一人しかいない珍しい日本人の竹鶴に、
声をかけてきた医学部の女子学生、エラ・カウンがいた。
弟のラムゼイに柔道を教えてくれないかとのことだった。
やがて、その姉であるリタと運命の出会いをする。
クリスマスに竹鶴はカウン家に招待される。
クリスマスのプディングケーキに、6ペンス銀貨と銀の指貫が入れて焼いてあり、それぞれが入っていた二人は結ばれる!という占いの習慣があり、何と、竹鶴に銀貨が、リタには指貫が入っていたのである。
二人は急接近して、翌年には結婚を誓うが、得体の知れない東洋の国から来た異国人との結婚に、家族は猛反対する。
教会でではなく、登記所の登記官の前で宣誓するだけの寂しい結婚式、リタを連れて3年ぶりの日本に帰国する。
 
待っていたのは深刻な戦後不況の嵐、本格的ウイスキー造りは誰からも相手にされず、やるべき仕事もなくて摂津酒造を去ることなる。
失業した竹鶴は、桃山学院高校で化学の教師になり、
妻のリタは、ピアノや英語の家庭教師で細々と生活する。
 
寿屋の鳥井信治郎は、ちょうどこの頃、本格的ウイスキーの国内製造を目指していて、スコットランドに醸造技師派遣を依頼中だった。
ところが、その返事は、“わざわざ呼び寄せなくても日本には、タケツルという優秀な適任者がいる”
という報告だった。
1923年の梅の咲く頃、鳥井信治郎と竹鶴政孝との出会いで運命の扉が開けられた。
鳥井は竹鶴に破格の給料を提示した。
この年俸はスコットランドから呼び寄せる技師に払う予定の額だった。
“技術面では全部任せること、10年間だけ働く”
との約束を竹鶴は取り付け、スコットランドと風土や気候が似ているウイスキー造りに最適な土地探しに取り掛かる。
厳しい寒さに包まれ、霧の立ち込める朝に清冽な水がこんこんと湧き、無尽蔵の泥炭(ピート)が広がる優しく眠るような大地・・・
それを、北の果て、北海道の余市に発見した。
水や気候風土はもちろんのこと、大粒で良質な大麦を発芽させたモルトと、
葦などの水辺植物が数万年にわたって堆積炭化してできたピートも必須であった。
麦芽をピートで燻蒸乾燥させる時の独特の香気(スモーキー・フレーバー)は、
“命の水(aqua vitae)”が語源のウイスキーの命である。
だが、鳥井は余市はいかにも北海道の地の果て、遠すぎる!と一言、
関西近くの別の候補地を探すように命じた。
5箇所の気候条件などの候補地から、ようやく決まったのが京都近郊の山崎であった。
1929年4月1日、竹鶴が製造した最初のウイスキー、
『サントリー白札』が発売された。
だが模造ウイスキーを飲みなれた当時の日本人には、
本場造りにこだわった強烈な本物の味は受け入れられず、販売は低迷した。
竹鶴は、夢である本物志向のこだわりを捨てることが出来ないまま、約束の10年を待って寿屋を退社し、
“良いウイスキーは北の風土がはぐくむもの”との信念で、余市に向かう。
 
ウイスキーはオーク材の樽に詰めてから、最低3年から十数年も熟成させなければ出荷できない。
つまりそれまでの間は収入ゼロである。そこで竹鶴は地元のリンゴを買い取ってジュースを販売する会社にし、
大日本果汁株式会社と名づける。
そしてついに6年後の1940年10月、竹鶴とリタは従業員たちと共に整列して、馬車で出発する初荷を、感激の涙と、万感の思いを込めた万歳で見送った。
大日本果汁を短縮して“日果”、夢が叶った『ニッカ・ウヰスキー』第一号の誕生である。
 
竹鶴にはもう一つの念願があった。
複数の蒸留所を持ち、異なった風土で育まれた原酒を合わせることで、より芳醇なブレンド・ウイスキーをつくること。
その第二の故郷探しで出会ったのが、仙台市から広瀬川を遡りながら山形市へ向かう途中にある奥座敷の作並温泉、
深山幽谷の中にあった。
広瀬川に合流する清流があり、偶然にも地元での呼称は、新川(にっかわ)川であった。
リタとの間には子は無く、北海道大学で醸造工学を勉強した甥を養子にする。
二代目社長の竹鶴威(たけし)である。
その竹鶴威さんが都内ホテルの宴席で、私の目の前で、丁寧に講釈しながら、水割りを作ってくれた。
「スコッチ本来の呑み方は、ショットグラスのストレートで味わい、チェイサー(追いかけるの意味)の水をその名前どおりに後から飲む、そしてまた新鮮な舌でストレートを楽しむのがベスト。
美味しい水割りの作り方は“ワン・ツー・スリー”が基本。
まずグラスに指二本分ぐらいの深さのウイスキーを注ぎ、
その2倍の冷水を入れて、大き目のカチ割り氷を3個入れてかき混ぜ、30秒馴染ませてから呑む! 
政孝の酒量はウイスキー1日1本。
ハイニッカを好んで飲んだ。
ただし、晩年には3日で2本に減りましたがね・・・」
 
作ってもらった貴重な美味しい水割りを頂きながら、私は言った。
「なるほど、私もこれからは、ニッカのごとくサントリーを飲むことにしますよ!」
「あのなあ、きみ!!」
竹鶴政孝が、山崎で国産初のウイスキーを造ってから80年。
世界コンテストで、ニッカウヰスキーは4年連続の最高賞を受賞し続けている。
我が国古来の、日本酒の世界品評会で、
イギリスなど外国勢の酒造会社が、日本酒世界一になるようなものである。
“ウイスキー造りにトリックは無い!” 
竹鶴政孝の声が、
今夜もちびりちびりと味わって舐めている、ピュアモルトから聞こえてくる。



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